正しく生きなきゃと思っていたあの頃の私へ
「完璧な生き方」を求めて、自分を抑えていたあの頃。
外見や家族、暮らしのこと……
いつも”正しくやらなきゃ”と思い心はどこか息苦しかった。
でも今は「完璧じゃなくていい」と心から思えるようになりました。
そう思えるようになるまでには、いくつもの揺らぎや迷いがありました。
アラフォーになった今振り返ると、少し長い道のりだったのかもしれません。
ここでは、その境地にたどり着くまでの私の歩みと、
このブログ「カスミノ」に込めた想いをお伝えします。
白斑症と隠す日々|ありのままに向き合うまで
10代で白斑症を発症してから、私はずっと「隠すこと」を続けてきました。
ファンデーションやコンシーラーで肌を覆い、半袖は避け、日差しにも敏感になる。
他人の視線が怖くて「自分を見せてはいけない」と思い込んでいたんです。
けれど、
大人になるにつれて気づきはじめました。
隠すことは、もしかすると自分自身を否定しているのかもしれない、、と。
少しずつ、ありのままの自分と向き合う時間を増やしていくうちに、
「私をつくる一部を、ちゃんと受け止めたい」
という気持ちが芽生えはじめました。
🗨「人と違うことは、語れる物語があるということ。その物語にこそ価値があるのではないでしょうか。」
白斑症についてはコチラの記事でお伝えしています。
介護という時間の中で、やさしさの意味が変わった
親の在宅介護を経験したとき(現在進行形)
「ちゃんとやらなきゃ」というプレッシャーが、僕の心をどんどん追い詰めていきました。
相手のためにと思っていたはずが、気づけば“やさしさ”よりも「自分を責める気持ち」の方が大きくなっていたんです。
思い通りにならない毎日だからこそ、「できないことを受け入れること」もひとつのやさしさだと気づけました。
その気づきが、介護の時間を少しずつあたたかいものへと変えてくれたのです。
🗨「やさしさって“与える”ことじゃなくて、“受け止める”ことかもしれません。」
地方と都市、両方に住んだから見えた「本当の豊かさ」
横浜での介護生活を経て仕事を辞めた後、僕は地方での暮らしを選び、都市と地方を行き来する二拠点生活をしていました。
しかし、その後に親が倒れ、今は横浜で介護をしながら在宅ワークをしています。
田舎には自然に囲まれた心地よさがあり、都市には便利さや刺激がある。
どちらにもそれぞれの良さがあり「どちらが正解」という答えはありませんでした。
大切なのは、モノの量でも場所でもなく、自分がどう在りたいかに気づくこと。
それこそが、僕にとっての本当の豊かさでした。
🗨「“どこに住むか”より、“どう生きるか”の方が、人生に深く関わってくるのではないでしょうか。」
「わたしらしい」エシカルを伝えたい、と思った理由
もともとこのブログは、地方へ移住した際に趣味で始めた雑記ブログでした。
しかし横浜に戻ったとき、一度は閉鎖を考え、すべての記事を非公開にしていました。
外見、家族、暮らし——。
さまざまな場面で「完璧じゃなくていい」と思えるようになってから、私の価値観は大きく変わりました。
ちょうどその頃、ChatGPTが進化して相談しやすくなり、「このブログをもっと有効に活かせないか」と模索する中で、「エシカル」や「サステナブル」というテーマにたどり着きました。
地方に住んでいた頃からその言葉は知っていましたが、
振り返れば、僕自身の人生がまさにエシカルな経験の連続だったことに気づいたのです。
エシカルは特別な人だけのものではありません。
誰かの期待に応えるためではなく、自分にやさしくあるための選択肢でもあります。
だからこそ、
このブログ「カスミノ」では、日常に寄り添うような“わたしらしい”エシカルの形を届けたいと思いました。
そして、もう一度、自分なりに頑張ってみようと決めたのです。
🗨「エシカルって、“がんばること”じゃなくて、自分に“やさしくなること”なんだと思う。」
まとめ|あなたの“私らしさ”も、きっとここにある
完璧じゃなくていい。
むしろ、揺らぎの中にこそ、あなたらしさがある。
これが私にとっての「エシカル」です。
このブログ「カスミノ」は、そんな揺らぎの中で生まれる気づきや選択を、やさしく見つめる場所でありたいと思っています。
正直に言えば、
記事を書きながら「エシカル」という言葉に、少し距離を感じた時期もありました。
でも、ここで伝えたいのは、何かを押しつけたり、売り込んだりすることではありません。
もし人生のどこかで、ふと立ち止まりたくなったとき
ここにある言葉が、あなたの“わたしらしさ”を思い出すヒントになれば嬉しいです。